大阪新四十八願所_第7番_大長寺
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大阪新四十八願所阿弥陀巡礼 / 第7番「大長寺」
寺院・諸堂来歴
- 慶長10年(1605)10月、毛利輝元(てるもと)の一族佐々木高久が外祖父毛利定春の冥福を祈り下屋敷を寺院として建立したのに始まる。かつての境内は現在の桜宮公園と推測されるが、「定春亭」の一宇があり、秀吉や家康が訪れた記録が残る。
- 明治42年(1909)明治の豪商藤田男爵家の寄進により現在地に移転。山門・本堂・観音堂・藤田殿・庫裏(くり)・鐘楼など壮大な伽藍を誇ったが、昭和20年(1945)6月の空襲で一切の堂宇を焼失した。昭和46年(1971)に本堂他を再建。
本尊
- 本尊阿弥陀仏像は脱乾漆造の座像で総丈は5尺に及ぶ。安政2年(1855)刊行の『摂津名所図会(ずえ)大成』巻12には恵心僧都(えしんそうず)源信作と記されるが、詳細は不明。
宝物・墓石・行事など
- かつて弘法大師作と伝わる立像5尺の開運地蔵尊や鎮西聖光(ちんぜいしょうこう)上人筆「円光大師鏡御影(かがみのみえい)」などを所蔵したが戦災で焼失した。
- 『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』の舞台としても知られ、主人公の紙治小春らの書き置きが遺(のこ)る。淀川の巨大鯉の伝承に基く「巴紋の鯉の鱗」も保存される。
- 年中行事は修正会(しゅしょうえ)・春秋彼岸会・盂蘭盆施餓鬼会・地蔵盆・十夜会などをいとなむ。
第7願 「天耳智通の願」(てんにちつうのがん)
もし我れ仏を得たらんに、国中の人天、天耳を得ず、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞きて、悉く受持せざるに至らば、正覚を取らじ。
(もしわれほとけをえたらんに、こくちゅうのにんでん、てんにをえず、しも、ひゃくせんのくなゆたのしょぶつのしょせつをききて、ことごとくじゅじせざるにいたらば、しょうがくをとらじ)
【大意】
私の浄土の人(にん)・天人は、天耳通(てんにつう:すべての音や声を聞くことができる能力)を有していて、いかなる仏の説法をも聞くことができますように。
和歌
ゆきてみぬ ちさとの外(そと)の あさ風も 心にすめる 月のもとかな
【訳】
〔本来なら〕行って見ることで分かる、千里(せんり)より遥か遠い先のあさ風の音も、心にすみ渡る月の下で聞こえるようだ。